◎ 森の守人

 スギやヒノキの木材が戦後の住宅建設や鉄道、鉱山などに投入され、林業は戦後復興を支えました。一方、木材の生産現場の山村は、高度経済成長の中にあっても、頑なに「より良いもの」のもの作りにこだわり、森林も守ってきました。林業が成長産業と位置づけられ、地方創生がうたわれているいま、木材生産に取り組み、戦後日本の国づくりを支えた林家や、森林を守ってきた人々などの「森の守人」の思いや体験をお伝えします。

◇高橋 清さん(76)=北海道中頓別町

「森は青いからいい、という訳ではない」

  学校を出て、すぐ山子(木こり)になった。伐採の仕事。資格が要らないし、道具だけ持っていけば出来高払いで、当時は、ほかの仕事よりヤマ仕事の方が賃金よかった。危険と隣り合わせの仕事だったが、生活かかっていたから、必死だった。チェンソーもブルトーザーもない時代。ノコギリを引いて木を伐って、(馬で運搬するために)馬道を造って、冬は雪が多いからソリで運んだ。

 半年はヤマに入り、飯場に住み込みながら先輩に仕事を教えてもらった。飯場では、食事はご飯と味噌汁だけ。おかずはない。山菜やキノコを採ったり、川で釣りをしたりして、仲間と工夫しておかずを作った。

 樹齢300年ほど、直径1mの木となれば、渡り70cmほどのノコギリで3時間はかかった。根を伐っていて根の一部が瞬間的に起き上がって体にぶつかり、下敷きになったこともあった。それで死んだ仲間もいた。北海道(各地)を回ってヤマ仕事して、道東に行ったこともあった。10年やって、ようやく一人前として扱われた。

 一番、印象に残るのは、昭和29年の洞爺丸台風に遭った風倒木の片付けだった。層雲峡のヤマだったが、トドマツやエゾマツ、アカエゾマツの、ほんとんど全てが同じ方向に倒れていた。根本から折れていた。大変な現場だった。ヤマや尾根の上の木はすべてなぎ倒されていた。現場で半年間泊まり込み、道がないため、伐った木を馬で引き出し、トラックの待つ道路まで運んだ。

 仕事に慣れてくると、ヤマに愛着心が生まれ、楽しくなった。木を伐ると、次に木が植えられる光景を想像する。どんな森になるか、楽しみになる。

 また、直径1mもの木を伐るときは、初めは必死だったが、次第に、木に申し訳ない気持ちにもなってくる。木を伐ることは、木の命を絶ち伐ること。自分たは草や木を切り殺してきた。それで生かされてきた。そう思うと、木を伐る時には、「よく、ここまで頑張って大きくなってこられたな」と声をかけるようになった。

 森は青いからいい、という見方をするが多いが、そうとは限らない。遠くに見える森が、例え青々としていても、森の恵みが理解され、間伐などに人の手が入って、初めていい森になる。木材で住宅が建ち、余った薪は燃料にし、山菜採って春を感じ、夏の木の実や秋のキノコを食べると、森の恵みが実感できる。

 ところが、経済的には、木の価格が安いから、間伐しても車の油代にもまらない。だから、間伐材が現場に放置される。お粗末なことだと思うよ。木も生きていくのに必死なんだ。放置された木を見ると、何のために植えたのか、と思うことがたくさんある。二束三文の、価値のないヤマに見られている。もう少し、手をかけられたらなあ。

 森に入って木を伐っていると、最初は必死に仕事しているから分からないが、余裕が出てくると、足下の花に気づくにようになった。名前が分からないと、帰って図鑑で調べる毎日だった。地元で呼ばれる名前と違うこともある。14年前にヤマ仕事を辞めてからは、そっちの方に力が入った。いまでも暇さえあればヤマに行く。また、近くの仲間と窯を作って炭焼きも。ヤマを降りても、ヤマを楽しんでいる。

 町の鍾乳洞の管理人だった頃に、遊びに来る子供たちに草花や木、木の実のことを教えてやった。いまでも呼ばれて教えに行く。

 遠くの森を見る時は1本の木に、近くの木を見る時は根元に咲く小花にも気づくようになってほしい。木にしがみつき、木の温もりに触れて安らぎを感じてほしい。子供たちには、木と一緒に成長しながら、人間の命だけではなく、すべての命を大切にする心を持ってほしい。ヤマの木や草も競って生きようとしている。だから、無闇に木を折ったり草を踏みつけたりしないように、子供に注意している。

 いつ食糧危機になるか分からない。これからは、自分の経験をもとに、食べるものない時に、命をつなぐ知識や技術も伝えていきたい。ヤマが教えてくれたことを。

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高橋さんは、1938(昭和13)年、中頓別町生まれ、中学校卒業後、山子を始めて間もない頃に、洞爺丸台風の被害があった。1954年9月、台風15号によって青函連絡船・洞爺丸が沈没、1,155人もの犠牲者を出した。北海道の森林も甚大な被害を受け、全道の風倒木被害は森林面積の14%に及び、木造住宅が50万戸建てられるだけの量だった。高橋さんによると、風倒木の撤去に3年かかったという。

 中頓別の国有林を管轄する宗谷森林管理署によると、中頓別のある宗谷地方は、北海道の中でも、いわゆる人工林地帯ではなく、ミズナラやイタヤカエデなどの広葉樹が多いという。そこで、高橋さんは、道内各地の造材現場を渡り歩き、2001(平成13)年に引退するまで60年間ヤマ仕事に従事した。


◇小笠原 義一さん(84)=青森県青森市

「ヒバが、めんこくて」

 本格的に林業を始めたのは、42歳の時。コメの減反政策が導入され、それまでやっていた農業に期待できなくなった。それで、得意なヤマ仕事に入り、太くて、量よりも質の良い木を育てる林業をやろうと、山形や岩手のスギのヤマ、他の人のヤマ見て歩き、いろんなヤマづくりを教わった。1年のうち3分の1は山歩き。そうした生活を20年続け、自分のやり方が見えてきた。

 青森ヒバは、スギと比べると生育が遅い。スギは100年もすれば直径50cmの太さになるが、ヒバは200年かかる。その分手間もかかるが、硬くて強い。一代で35年ぐらいしか世話できないから、建材として売れるようになるまで200年間育てるには、6~7代かかる。だから、一生懸命に世話する。手を抜けない。

 自分の一生をかけて、木に愛情込めて育てれば、木もよく育つ。めんこい。よくなる木を見て、今年より来年、再来年と丹精込めれば、ますます木がよくなる。期待を持って毎日自分の手入れしている木を楽しみながら汗を流し、1年を暮らす。木がよくなる姿を追い続けてきた。

 よそのヤマにない木を作りたい。真っ直ぐで、無節のもので太さも大黒柱に使えるような、いい木を育てたい。どの家庭でも、大黒柱と言われる人が全責任を負う。人が安心して暮らせる家を支える、大事な場所に使う木を育てるには、こちらの責任も重大だ。

 やり始めの頃は、青森ヒバは陽があまり要らない、と言われた。植林も、木の間に1本ずつ苗木を入れるやり方だった。ところが、自分のやり方は、根が十分張れるように、100%日光を入れる。ヒバの天敵は漏脂病だが、どうも暗いヤマ、また枯れ枝のヒバ山に発生するようだ。だから、陽を当てて根張りをよくさせ、風通しをよくさせる。枯れ枝の所は(製材すると)穴があく、節になるもなるから、枝を絶対に枯らせない。

 さらに、言われてきたことは、ヒバは生育が旺盛ではないため枝打ちが必要ないと。枝打ちすると、生育にブレーキがかかるとの見解だ。ところが、自分は、年輪の幅を大きくしたくないから、枝打ちで調整する。収穫は遅れて手入れが多くなるが、こうすると、柔らかくて強い木材ができる。

 間伐した材をヤマに5年も放置すれば、スギはすぐ腐るが、ヒバは樹脂が多くて腐らない。それだけ長持ちするし、殺菌効果もある。

 木も人間と同じで、枝付き葉の色など、どれも違う。林の湿度や風当たり、土地の湿度のあるなし、斜面の方角で、間伐の間隔を調整する。また、自分のヒバ林は、ヒバ8割に、スギやケヤキ、ブナの混交林にしている。特にブナを保水力があって水持ちがいいから、ヒバにもいい。

 最近は、技術が発達して、ノリを貼った集成材が使われる。原木よりいい、と言われるが、納得できない。粗悪な木をくっつけて作った代物。何年かして、ノリがはがれて弱くなる。住む人が安心して暮らせるだろうか。狂いのない、真っ直ぐな原木を使った方がいい。

 人間って、思うようにいく時もあれば、予想しない事故に遭い、障害あるのが普通だ。だから、狂いもなく、どっしりして安定して、長持ちする材で作った家が、何かといいんではないかな。少しぐらい手間かけても、カネ少々安くても、家建てる人が満足する木を、自分が健康なうちは、一生懸命育てていきたい。

 樹木に愛情、巨木に夢だ。いまの仕事、林業は、自分の思うように仕事して、一生暮らせるから最高だ。

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小笠原さんが、林業を始めたのは、20歳の時。コメと野菜づくりの農家で、田植えを終える6月中旬ごろから、畑仕事の合間をみて、山仕事に出かけた。

 林業に専念するようになり、それまでのスギのヤマを青森ヒバ中心に転換した。天然の青森ヒバは保存林を除き30年前になくなり、同時に植林が行われた。

 従来の方法とは真逆の独自手法で苗木の育成から造林まで研究し、施業方法を確立しようとしている。現在は、36ヘクタールのヤマを管理。青森市滝沢の自身のヒバ林には、「樹木に愛情を 巨木に夢を」と刻まれた石碑が建つ。小笠原さんの、ヤマづくりの理念を後世に伝えるためだ。

 6世代かけて育て上げるという青森ヒバ。成果や結果がすぐに求められ、目先の利益に走りがちな現代社会とは、価値を測るモノサシが違う。

 

◇魚住 由治さん(89)=秋田県北秋田市阿仁町

「きれいなヤマは恋人だ」

 ヤマでの仕事は、学校を卒業し、周辺一帯の鉱山を経営していた鉱山会社に入ってから。最初は、木の高さや幹回りなどを測る仕事だった。昭和15(1940)年ごろ。鉱山会社は、坑道を支える木枠やトロッコの枕木が必要なため、ヤマを持っていた。

 木を倒す方向を間違えると、他の木に当たったりして、木を傷める。ヤマ仕事は、伐採の仕事をしていた父親に教えられ、木を倒す要領を覚えた。(第2次大戦により)昭和17(1942)年秋には木材は軍用材として徴用の対象になった。1本キズがついた木があると、その分、伐採する木を探さないといけない。

 ところが、ほかの誰よりも早くヤマに行って伐り方を覚え、木を倒すのにも自信があった。1mほどのノコギリ使って、直径40cmから45cmぐらいの木を15分ぐらいで伐った。終戦から4年して結婚、2ヘクタールのヤマを買った。幹が細いスギ山で見込みもないから、安く買えた。比較的太い良材から伐って売り、つないだ。、

 鳥が止まって休む、木のてっぺんの枝のことを「カラスどまり」と言うが、鳥が止まっても弾力があってフワフワした感じの枝木は、木全体が元気でよく育っている証しになる。そういうヤマを持とうと思った。

 別の仕事でヤマに入る時は、伐採に何日もかかるため、集落や周辺の仲間7、8人と一緒に、着替えを持って行った。木を組んでスギの皮で屋根を葺いて小屋がけし、1カ月から2カ月、そこで寝泊まりしながら伐採作業した。食糧は、コメや味噌、野菜、干し魚など。女の人たちが背負って登ってくる。一人20kgは超える荷物を背負子に積んで運んでくれた。

 伐り終えた木は、冬になると、馬車が入る所まで、雪ゾリに積んでヤマから降ろした。雪ゾリは、速くすると危険だし、ゆっくりだと重くなる。木を伐る方が、よほど楽だった。

 ノコ(ギリ)1本。収入も決して、恥ずかしい額ではなかった。公務員といえば、阿仁では先生か役場の職員ぐらい。その3倍弱(の収入)だった。

 カネはいいが、その代わり危険な仕事。当時は、飯のたねだと割り切った。どぞりでの運搬は、もっと危険だった。長さ約8メートルの丸太を運ぶ。スギは皮を剥いて、トビ使うと木が傷むから使えない。道のない所、斜度30度もの斜面を、4人ぐらいで引っ張って、舵をとりながら降ろす。雨降るのを待って、泥の中を(滑りやすくするため)土をかぶせたり、枝葉を敷いたりしながら、降ろした。並み大抵のことではない。

 昭和6(1931)年に阿仁鉱山が休山し多くの住民が各地の鉱山に散っていった。(1978年に最終的に閉山し)こには、ヤマしか残らなかった。ここで生きて行くには、ヤマの手入れをするしかない。ヤマを育てて、稼ぐしかない。覚悟を決めた。周辺の林業家と阿仁林業研究会を立ち上げ、ヤマの技術を磨き合った。8人でスタートし、今は19人、3年前まで会長をしていた。

 手入れが行き届いたたヤマは、恋人みたいなもの。世話した林は、見違えるほどよくなる。木がスッと伸びて、本当にきれいだ。見ほれる。ヤマに行くときは、彼女に会いに行くようなもの。

 ところが、手入れをしないヤマが増え、林業はまことに寂しいものになってしまった。手入れすれば、まだまだ手入れの利くヤマは相当ある。何とかしないと大変なことになる。

 手入れが不十分なヤマは、裸山より悪い。裸山はほっておけば雑木が生えてきてヤマが維持される。ところが、手入れしないスギ山は、自然に枯れて根の部分が腐って地面に穴が空く。そこに水がたまって地下にも水たまりができて、地滑りなどの災害になる。そう、教えられてきた。

 もう歳だから、子供にはヤマで怪我でもしたら、笑いものだと、辞めるように言われる。昨年11月に車の免許を返納した。それでも諦め切れずに、その後、3キロ離れた自分のヤマまでタクシーで行って、間伐してきた。誰か、連れて行ってくれるなら、どこ(のヤマ)でも行く。後は、車を持っている友だちに頼むしかないな。

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魚住さんは、1925(大正14)年生まれ。地元の阿仁鉱山は、金、銀、銅が採掘され、1926年には、銅生産日本一になったとされ、長崎から輸出される銅の主要部分を占めたと言われる。鉱山は坑道の枠やトロッコの枕木のほか、索道のワイヤを支える柱に使われた。そのため、国有林を含め、阿仁周辺では林業が盛んだった。

 「植えたものは、自分で育て、育てたものは、自分で伐る」の言葉に、並々ならぬ責任感を感じさせる。「じいさんがちゃんと育てたヤマだからと、少しぐらい高くても買った」と話すほど、「いいヤマ、美しいヤマ」にこだわる。

 伐採や育林に定評があり、1984(昭和59)年に阿仁林業研究会を仲間と設立。林業仲間は、県のコンクールに出場するほどまでに腕を上げた。森林組合の理事など地域の林業技術の普及に努める一方、93年には県指導林家に認定され、秋田の林業振興に尽力、特に無節材の生産、普及に取り組んでいる。

 

◇高橋 政義さん(85)=山形県飯豊町広河原

「木を植えるのは、作法だ」

 林業と農業をやっているが、林業に本腰を入れ出したのは、60歳ごろから。それまでは、米作りながら畑をやり、先代から引き継いできたスギ林を手入れしてきた。2年前までは、雑木やナラの広葉樹を伐って炭焼きもやっていた。

 そこへ、コメの減反で、(広河原地区は町内調整で)全部、牧草地になった。コメ作れなくなって、余裕ができたから、スギを植林し、本格的に林業に力を入れた。この地区から住民が出て行って、わしらたった1軒になった10年ほど前まで、植林もしていた。いまは、下草刈りや枝打ち、また、チェーンソー使って間伐をしている。

 (自宅の)裏山は先代が植えたヤマだが、家の脇に清水が湧き、ヤマワサビが生える。ワサビ菜は少し辛味がある。おひたしや天ぷらにするとうまい。山菜にキノコ、川魚もいるし、ヤマのものは何でも食べられる。ヤマのものは、うまくねえものは、ねえし、体も健康でいられる。ここの暮らしは最高だ。

 スギ林は絶やしてはだめだ。根っこが(土中に)水を蓄えてくれるから。広葉樹は、切っても脇から(ひこばえが)出てきて何十年かすれば元の林になるが、スギはそうはいかない。昔、裏山のスギを全部切ったら、清水が枯れた。なんぼ、雨が降っても水が出ない。植林したら、水が湧くようになった。20年かかった。だから、ヤマが田んぼや清水を守っている。

 昭和42(1967)年の(羽越豪雨)水害の時は、ヤマから大水がどんどん来て、田んぼが水浸しになって、コメが全滅した。だから、スギのヤマを絶やしてはならねえ。

 木を切ったら、植えるのは作法だ。つとめだ。当たり前のこと。伐ったら植える。オヤジから教えられてきた。木を切ることは、命を絶つこと。木を植えるのは、木に感謝し、許してくれ、とその償いでもあるのか。

 ここら(広河原地区)には、草木塔(と自然石に文字が刻まれた石碑)が二つある。誰が建てたのか、前々からある。自然の命や恵みをもらって暮らしてきたから、感謝の気持ちで建てたのだろう。

 ここに住民が多くいた頃は、集落の道や水路の土さらいなんかの共同作業に、みんなで助け合った。この辺では、共同作業を「人足」と呼ぶ。離れた場所の道普請の時は、弁当を持っていってみんなで食べた。

 人がいなくなると、間伐なんかの手入れがされなくなって、ヤマは荒れる。何とも、しょうがない。手入れされないと、枝葉が混んできて、日陰になって山菜も出なくなる。このままだと、どうなっていくんだかなあ。体が動いて、ヤマが食わしてくれるうちは、精一杯、ヤマでがんばる。

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高橋政義さん(85)は、妻竹子さん(83)との二人暮らし。町中心部から白川ダムを経て車で約1時間、隣りの集落まで6キロあるこの地区は、ダムが完成する1981年までは、45世帯計180人が住み、小学校や公民館もあった。しかし、住民は、高橋さん夫妻だけとなった。現在は、馬鈴薯や大根など畑を耕し、2.5ヘクタールのスギ林をを持つ。

 1967年8月、山形、新潟両県にまたがる飯豊山系を中心に記録的な豪雨が襲い、両県で100人を超える犠牲者があった。この羽越豪雨を契機に、多目的の白川ダムが整備された。ダム上流域の中津川地区では、過疎化を跳ね返そうと、体験農場や観光わらび園、オートキャンプ場などを開園。農家民宿やホテルも整備し、雪祭りや湖畔マラソン大会など様々なイベントによるグリーンツーリズムを展開し、自然愛好家らが訪れている。

◇小椋敏光さん(58)=福島県南会津町

「木に生命の響きを感じる」

 原木販売から製材、木材販売や住宅建築、家具作りまで幅広く手掛けている。1992(平成4)年に「きこりの店」をオープンさせ、エンドユーザーに直販している。きっかけは、かつて、家具の部材の製材をやっていたが、節や虫穴、割れがあるものは、メーカーからはねられることだった。極端によいものを要求されると、原木の歩留まりが3割、残りの7割はチップになってしまう。板から細かいものになってくると、原木の15%しか使えない。もったいない使い方だ。

 200年のミズナラの良いところだけを使う。我々が、命張って切ったものを、いとも簡単に「ノー」を突きつけられる。

 現代の価値観が、きれいで当たり前、きちっとしたものを求める。規格に合うように出さないと、買ってくれない。どう考えても変だよ、と思った。社会全体や木材産業が、木を乱伐しないと成り立たないような構造になっている。我々の仕事は、環境破壊の最先端のように言われることもあるが、社会全体がそういうものを生み出している面がある。

 そこで、自分で値段をつけ、きこりの店で売った。意外に、物凄く売れた。家具業者が当然、返品してくるようなものが。きちんと説明をする。木材の穴や節は、欠点ではない。木の個性であり、木が生きてきた歴史だと。(客に)イメージしてもらう。動物にかじられ、石が落ちてきたり、大風に揺られ雨や雪にさらされたり。木の生きてきた痕跡が刻まれている。そこをダメと言われると、広葉樹は使うところがない。

 木の傷は個性と考え、木目に想像力を働かせると、ふと、ひと息抜ける。きれいなものだけを求めていたら、人間がギスギスして、それこそ人間疎外に陥る。人はいろんなことがあって当たり前。木の傷は、むしろ自分や人の人生に重なる。愛着も生まれる。

 樹齢200年の木になると、生命の響きが感じられる。人間臭い。暗闇の中で見ていると、動かないが、どっきとする。今にも、動きだしそうな。同じ生命を持つものに対する共感がある。木は人間の情緒や感性を養うと思う。テーブルだって、人の心を養い癒すために使いたい。木が人に与えてくれる恵み、恩恵を理解すると、日常の暮らしの中で安心感を覚える。

 大学を出て、東京で暮らしていたが、1981(昭和56)年、26歳で帰郷、この仕事に入った。当時は、樹齢200年のヤマの公売が、毎月あった。営林署は業者がひしめき、にぎやかだった。いまは、広葉樹の立木の入札はない。当時、40人もいた従業員は、現在は9人。当時は2万立方伐っていたが、今は100分の1の伐採量で、何とか工夫してやっている。

 木と人の関係。すべての動植物は、木のお蔭で生きていける。人間も森に守られ、木によって長い間、生活してきた。人間のDNAに、木に対する愛着や共感が組み込まれていると思う。ところが、人と自然が引き離されている。変な方に行っている。

 そこで、15年前、森づくりの会を始めた。社有林に山小屋を構え、間伐や除伐などの山仕事をやっている。首都圏から毎回30人ぐらい集まる。ちっちゃな会社でも、人と木の関係を是正して、健全に生きていくことを、細々とやっている。木のこと、環境のことが分かってくれる人が増えるように、啓発的なイベントが必要だ。木材のことを多くの人たちに、もっと知ってほしい。それで、樹木や環境が守れられていくことも。